2026.10.01 ベテランが辞める前に。引き継ぎで本当に渡すべきは手順書ではない

「マニュアルを作ればいい」——それで属人化が解消せず、引き継ぎが進まないのは、なぜでしょうか。

ベテランの退職が見えてくると、多くの会社がまず手をつけるのがマニュアルや手順書づくりです。その人しか分からない・その人にしかできない仕事を、辞める前に文書に残しておこう、と。

ところが、いざ作り始めると手が止まります。「作業の手順」は書けても、「なぜこの場面でこう判断したのか」がどうしても書き起こせない。書いた本人ですら、うまく言葉にできない。結果、分厚いマニュアルはできたのに、いざ現場で若手が使うと「書いてあるとおりにやったのに、なんだかうまくいかない」——。属人化の解消が進まない会社は、たいていここで詰まっています。

そしてこれは、特定の会社だけの悩みではありません。経済産業省・厚生労働省などがまとめる『ものづくり白書』でも、製造現場の技能承継について約8割の企業が不安や懸念を抱えていると報告されています。要因の上位に並ぶのが「ベテラン指導者の高齢化・退職」「受け手となる中堅・若手層の不足」「日常業務が多忙で指導の時間を確保できない」。どれも、心当たりのある方が多いのではないでしょうか。

手順書に載らないもの=「暗黙知」

これは、能力の問題でも、書き方が下手なわけでもありません。そもそも、人の仕事の勘所は言葉にしきれないという性質を持っているからです。

哲学者のマイケル・ポランニーは、これを「暗黙知(tacit knowledge)」と呼びました。有名な一節が「人は、語れる以上のことを知っている(We know more than we can tell)」です。自転車の乗り方を言葉だけで完全には説明できないのと同じで、熟練者の「なんとなく、こっちだと思った」の中身は、手順書のフォーマットからこぼれ落ちます。

マニュアル整備が悪いわけではありません。手順の標準化には、確かに効きます。ただ、属人化の正体は手順ではなく「判断」のほうにあるので、手順だけを文書化しても、いちばん渡したいものが残らないのです。

本当に渡すべきは「なぜそう判断したか」

では、その言葉にならない判断を、どうやって次の人に渡すのか。

経営学者の野中郁次郎は、暗黙知が組織の中で受け継がれていくプロセスを「SECIモデル」として整理しました。ざっくり言えば、個人の中にある暗黙知を、対話を通じていったん言葉にし(表出化)、それを他の人が受け取って自分のものにしていく(内面化)という往復です。

ポイントは、暗黙知は「書き出す」だけでは動かない、ということ。引き出す相手がいて、問われて、はじめて言葉になる。だから引き継ぎで本当にやるべきなのは、ベテランに一人でマニュアルを書かせることではなく、「その場面で、なぜそう決めたんですか?」を横から引き出していくことなのです。

先日、私たちもある会社さんのワークショップをお手伝いしました。テーマは「顧客ヒアリング」。そこで課題になっていたのは、お客様とのやり取りから本当の課題まで引き出せる人と、話を聞くだけで精一杯で隠れた課題までは届かない人がいる、ということでした。その「引き出す勘所」がベテランに属人化していて、他のメンバーにも渡せる形にしたい——まさに、この記事のテーマそのものの現場です。

私たちが行うセッションの初回では、手順書にはまず載らないであろう言葉が出てくることがあります。今回も、参加者の一人からこんな言葉が出ました。

「自分だからできる仕事がしたい」

私たちは、手順だけが並んだマニュアルに、それほどの価値があるとは思っていません。実際に現場で仕事をしている人の目的ややりがいにも踏み込むことが必要だと考えています。

最初の一歩は、いきなり深く聞かないこと

とはいえ、いきなり「あなたの判断の勘所を、全部言葉にしてください」と言っても出てきません。身構えさせてしまいますし、本人も、何が価値ある暗黙知なのか自覚していないことが多いからです。

私たちが現場でやっているのは、まず浅く広く引き出すというやり方です。最初の回では、深掘りは狙いません。その人が普段やっていること、気にかけていることを、広く浅く、とにかくたくさん机に並べてもらう。ジャッジしない、正解も求めない。

そのうえで、二回目以降で、並んだものの中から「これは他の人には見えていないな」という一点を選んで、掘り下げていく。「さっきの、あの判断ですけど」と、具体の場面に戻って理由を聞く。この順番——広げてから、掘る——が、暗黙知を無理なく言葉にしていくコツです。

実際、最初の回でこんな場面がありました。あるメンバーは「お客様のために尽くしたい。だから、とことんヒアリングするのが大事だ」と言う。別のメンバーは「忙しいお客様に手間をかけさせたくない。だから、やり取りはできるだけ短くする」と言う。一見、正反対の価値観です。皆さんなら、この状況をどう捉えるでしょうか。

ここで「まあ、人それぞれ、価値観の違いですね」と片付けてしまうと、属人化はいつまでも解消されません。というのも、どちらの言葉の奥にも、その人なりの「こういう時はこうする」という判断の基準——つまり暗黙知——が隠れているからです。引き出すべきなのは、どちらが正しいかではなく、それぞれの「なぜ」のほう。二人の「なぜ」が並んではじめて、「お客様のために」を、どんな場面でどう使い分けるのか、という渡せる知恵になっていきます。

まとめ:引き継ぎは「書かせる」より「引き出す」

ベテランが辞める前にやっておくべきなのは、分厚いマニュアルを一冊仕上げることではなく、その人の頭の中の「なぜ」を、少しずつ言葉にして残していくこと。その最初の一回を、早めに始めておくことをおすすめします。

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